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オフィス・マッチング・モウル 週刊モグラ屋通信 46


本日の担当:内藤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 週刊 モグラ屋通信 第110号 2005.4/4  

愛・地球博のプレス用の内覧会にまんまと潜り込んだ池田がうらやましい。私はまだ行っていない。なぜならば、年度末には、年間事業の報告書を完成・提出するという大仕事があり、まるで夏休みの最後の日に溜めに溜めた宿題を泣きながら片付けている小学生のような状態だったからだ。だから、早くやっとけと言ったでしょ! と大反省大会。子どもの頃からまったく進歩してません。
 
さて、万博だ。前回の池田の3つのパビリオン評は、「さもありなん」という感じですね〜。『三菱未来館』はその中でも一番評価が高かったので、子どもたちを連れて万博へ行くというアーティスト中川佳宣にとりあえずお勧めしてみたんだけど、「リニモが一番よかった!」と謎の感想を聞かされました。リニモというのは、万博会場への輸送機関なのだけど……。ま、いいや。とにかく、35年目に再び衝撃を与えてくれるんじゃないかと、個人的に勝手に盛り上がっていた『三菱未来館』よりも、中川家としてはリニモであったと。
 
私にとっての万博とは、はやり1970年に開催された「大阪万博」です。“大阪に行くには交通の便が悪い田舎に住んでいたとか、貧乏で親に連れて行ってもらえなかったとかいう、当時のかわいそうな子どもたち” (←すごく凶暴な解釈だな) と違い、私は恵まれた環境だったので2回も行っちゃいました。悪いね。しかし、さすが地元の子は違うな! と関心したことがあります。大阪万博で前述の中川佳宣が、並びに並んでようやく見たアメリカ館の “月の石” を「そこらの工事現場のコンクリートのかけらじゃないか!」 (という趣旨のことを河内弁で叫んだと推定)と思ったのだが、そう考えたのは中川一人ではなく、友達もみなそう考えたらしく、その後、近所の工事現場からコンクリートのかけらを拾ってきて「誰のが一番“月の石”に似ているか」を競う、 “月の石ごっこ”が流行 したといふ。さすが大阪の子どもたち、ほとんどみんな万博に行っていたんだね。
 
で、まあまあ新幹線へアクセスのよいところに住み、かつ物見遊山な父母および祖父がいたおかげで出かけた大阪万博で、一番のカルチャーショックというのは、ばかみたいな話だけど 外人を見た! ということかもしれない。どんな田舎にいても外国人がいる現代と違い、1970年頃には大都会 (私の場合、せいぜい名古屋。でも、名古屋で外人を見たという記憶はない)かテレビの中にしか外人 (この呼び方が当時風)はいなかったからね。ホント、びっくりしました。大阪万博の会場では、有名人でもなんでもない単なる観光客の外人たちに、発展途上国日本の子どもらが、やたらサインを求めたという、今考えるとたいへん牧歌的であるが同時に物悲しくなるような現象もあったらしい。地方都市にあるモグラ屋の事務所の前には、事務所の大家さんの会社が経営している日本語学校があるので、隣のスーパーマーケットは、昼時になると昼ごはんを調達にくる学生たちでものすごくインターナショナルな状態になっており、事務所の周辺はいつも外国人でいっぱいだ。35年前と比べ、隔世の感があります。
 
ようするに、当時の万博で私たちは、これまで知らなかった外国(=世界)というものに触れることができたのです。今の子どもらなんて、小さい頃から海外旅行をすることも珍しくないですよね。1970年頃、近所の悪ガキ (そして金持ち。当時はかなり貧富の差があった。子ども社会における貧富の差は持っているおもちゃで決まる) が親に連れられて台湾旅行に行ったというのは、私たちにとってどれだけ「大事件」だったかなんて、もう説明してもわかんないだろうなぁ。海外旅行なんて「選ばれた特別の人たちだけができる特別なこと」で、よもや自分が死ぬまでに外国に行くことができるなんて想像だにできなかったなんて。また、今みたいにどんな町でも外国人が住んでいるなんてことも想像できなかったですね。近所に住んでいる庶民以外のなにものでもない小学生の姪っ子たちでも、外国人のやってる英会話教室に通って「サイモン先生がね〜」とか言っているのである。もう自分は現代ではなく近代の人間じゃないかと思えてくる。そのくらい外国(=世界)は身近になりました。
 
当たり前のように世界が生活の近くにあるという現代を、当時の私は想像の「近未来図」にすら描けてなかった (でも想像だけはめちゃくちゃいっぱいしていた。未来の都市の図面とかを新聞チラシの裏に山のように書き散らしていた)。だから、今回の万博で、現代の子どもたちが文字通り見知らぬ世界に出会うという興奮や感動や恐怖の入り混じったワクワク感を、味わうのは難しいかもしれない。それは、もうひとつのカルチャーショックだった科学の進歩にもいえることかもしれないけど、それは次のモグ通で書くことにいたしましょう。当分、万博特集だな。まぁ、マイブームってことで。(つづく)
 
 
現在進行形の仕事
三河・佐久島アートプラン21 『佐久島体験2004 祭りとアートに出会う島』 企画・制作
岡崎市シビックセンター 内田修ジャズコレクション 展示コーディネート/継続中
 

本日の担当:山口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 週刊 モグラ屋通信 第111号 2005.4/14  

冬からずっと心待ちにしていた桜の季節がやってきました。ここ2、3日は雨のため実行できていませんが、それより前までは、桜に「山口さーん」と呼ばれて (いる気がして) 、休日や仕事が終わった後に、岡崎城や豊川の桜トンネルなど、近所の桜の名所へ出かけてはお花見をする日々を送っていました。 今年最初に行ったお花見は、3月の末に地元の文化施設で開催された「薄墨桜祭り」です。薄墨桜は現在ヒラヒラと美しく舞い始めているソメイヨシノよりも早い開花時期を迎える桜ですが、その日はまだ桜は0.5分咲きくらいで、お花見というよりは、そこで開かれた竹内正実さんのテルミンのコンサートをお目当てに行きました。
 
テルミンとは、何となくは知っている方も多いと思いますが、“垂直と水平に伸びるアンテナに、手を近づけたり遠ざけたりすることで音階や音量が変わる”という、不思議な演奏方法をする世界最古の電子楽器で、ロシアの物理学者テルミンによって発明されました。数年前にそのドキュメント映画が公開されたり、若者に人気のあるミュージシャンが楽曲に取り入れたりと、最近注目を集めているようです。竹内正実氏はそのテルミンのトップ「テルミニスト」 (テルミンを演奏する人のことをこういうらしい)。しかも私の住む豊川市のおとなりの宝飯郡に今でもお住まいだそうで、一方的に親近感を感じて、前々から演奏を聴いてみたいと思っていました。
 
当日は、竹内氏によるテルミンのソロ演奏と、ロシアの民芸品マトリョーシカにテルミンを内蔵した「マトリョミン」を使ったグループ演奏の2部構成で行われました。はりきって早く行ったかいがあって、最前列の席で演奏を鑑賞でき、すっかりその魅力のとりこに。特に「マトリョミン」には一目惚れしてしまいました。これは、テルミンを普及するために竹内氏が開発したものだそうで、その非常にかわいらしい風貌と、手軽に演奏できそうな点 (ピアノのように指を早く動かさなくてもできるのではないかという安易な考え) から、演奏を聴いた後、ものすごくマイ「マトリョミン」が欲しくなりました。4月は新しく何かを始めたくなる季節。しばらくは、春の佐久島でのイベント準備で、「マトリョミン」のレッスンに通えそうにありませんが、近いうちに実現させたいと密かに熱く思っています。 (写真:これが「マトリョミン」です。欲しい!)
 
佐久島といえば、今は、おひるねハウスの建つ石垣海岸をはじめ島内各所で薄紫色の小さな花をいくつもつけたハマダイコンが咲き乱れています。桜のように短命ではないので、まだしばらくは楽しませてくれそうです。万博ついでに (強引) 名古屋から約2時間で行けるお散歩日和の佐久島へ、どうぞお越しください。
 
 
現在進行形の仕事
三河・佐久島アートプラン21 『佐久島体験2005 祭りとアートに出会う島』 企画・制作
岡崎市シビックセンター 内田修ジャズコレクション 展示コーディネート/継続中
 

本日の担当:池田
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 週刊 モグラ屋通信 第112号 2005.4/18  

つくづく女ってスゴイなあと思います。自分を美しく見せるためには努力を惜しまない。休日、近所 (岡崎のイオン) に買物に行ったときのこと。若いカップルが前を歩いていて、彼のほうはごく普通にシャツにジーパンなんだけど、彼女のほうは胸もと強調のタンクトップにカーディガン、白のタイトスカートっといったいでたちで春らしい (というかもう初夏だな) 格好しているわけ。それで極端に不自然な内またで歩いているもんだから、気になって観察していると、その内またの理由はどうやらサイズが合ってないサンダルを履いていて足が痛いのをカバーしているようなんだな。歩くときに姿勢が前かがみになってつらそう。おいおい彼氏、気づいてやれよー、その極端な内または君のためにカワイイところを見せているんじゃないぜー。ありゃきっとひどく靴ずれしてるだろうな。この先一日彼女は水ぶくれで痛い足を引きずりながらデートを続けられるんだろうか、とおせっかいなことを考えてしまうのでした。
 
女って好きな男のためなら無理しちゃうものなんだな。しかもこの彼女の場合、格別美人でもなく、悪く言えばスタイルも並以下ってところがポイントで、同情心をそそるというか、痛々しい。靴ずれしても内またでごまかし、ここぞとばかり女らしい服を新調し、髪型もメイクもばっちりキメてるんだけど、その彼女にはあまり似合っていないように思える。女っていうのは彼氏の前だとがんばってカワイイ女を演出しちゃうものなのかね。それともこれって自己満足? 女はみんな自分がイケてる女だと思いたいものなのかしら。
 
ファッション誌もこのごろはモテる女になるための特集ばっかりだけど、雑誌に出てくるような格好って実用的じゃないじゃない。一般庶民が数万円もするTシャツ (Tシャツですぞ) やウン十万円もするスカートとかブランドの服を着られるわけがない。それでも着こなしだけでも真似してみるんだけど、動くことを想定した着こなしじゃないから歩いているうちにかたちが崩れてズルズルの格好になっちゃう。そもそもモデルさんと体型がぜんぜん違うんだから無理がありすぎる。雑誌のファッションって幻想なのよね。それでもみんな自分がイケてる女だと見られたいがために、なりきって努力する姿は健気ともいえる。 しかし、女性用トイレの実態をごぞんじか。化粧直しの場所とり、ゴミの散乱、マナーなんてものはここでは通用しません。鏡をのぞきながら隣の女を見て「勝った」と思うのが女。表で美しく見せるぶん、裏は壮絶なバトル。この現実のギャップ。健気でもあり、このはざまでたくましく生きているのが女なのよね。みんな同じようなメイクとファッションにもかかわらず……。
 
そんなことを思いつつ、ふとわれをふり返るとすっかり女を忘れてかけている自分。すっぴん&ボサボサの髪を野球帽でごまかして平気で高島屋に出かけてしまう。これはこれでひじょうにマズイ。37歳っていう年齢だし、そろそろ手入れのし甲斐もないなんて思いはじめていたけど、ここが分かれ道だよな。いかんいかん。これでも昔は、ボディコン (なつかしい言葉) の服に身をつつみ、マハラジャ (ひえ〜) でぶいぶい言わせていた私 (われながらこの回想は恥ずかしい) 。イケてる女でなくていいけど、せめて年相応に身奇麗にしなければ。そういえば、しばらく美容院にも行ってない……。行きます。はい。
 
 
現在進行形の仕事
三河・佐久島アートプラン21 『佐久島体験2005 祭りとアートに出会う島』 企画・制作/4月18日更新
岡崎市シビックセンター 内田修ジャズコレクション 展示コーディネート/継続中
 

本日の担当:内藤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 週刊 モグラ屋通信 第113号 2005.4/25  

さて今年もスタートしました 三河・佐久島アートプラン21 。すでに先週末からゴールデンウィークの各種アート・イベントの準備で島の人となっているモグラ屋です。ホント、春の佐久島はいいですよ、楽園っぽく花が咲き乱れ、トンビがピーヒョロロと空を舞い、今まさに満開のハマダイコン群生する中に埋もれるようにある“おひるねハウス”で寝転んでみれば、ついつい熟睡モードに突入してしまう夢のような世界。とても日本の工場・愛知県にいるとは思えません。まったく、休暇で訪れる人がうらやましい。
 
さてさて、前回の続き、万博のお話。今回の愛知万博のテーマは自然の叡智ですが、1970年の大阪万博の場合、進歩と調和でした。前回のモグ通では、「大阪万博で初めて外人なるものを見てびっくり」して、当たり前のように世界(=外国)が生活の近くにあるという現代を、当時は想像の「近未来図」にすら描けてなかったなぁ……、なんて話を書いたのですが、同じように大阪万博では「科学技術及びその進歩」に大きくスポットが当てられていたにも関わらず、たった20数年後に実現してしまうインターネット状況が、一部の技術者はいざ知らず一般大衆にはまったく想定の範囲外だった、という事実に個人的にはかなり衝撃を受けてます (現在進行形)
 
私はアーティストの小川信治と違ってぬるいSFファンなので、たいした知識はないのだけれど、1970年頃のSFですら、“今ではすっかり実現しているテレビ電話”とか、“実現はまだ夢のような気がする転送装置”ってのはあったけど、インターネットに類似する記述を思い出せない (でも私が無知で「ずばりインターネットを予言している」ネタがあるかもしれません。だったらゴメン&出典を教えて!) 。つまりテレビ電話がすべてを肩代わりしていたわけか? いや、違うなぁ、だってあの頃のテレビ電話というのは「今と同じようにある特定の場所 (テレビ局かその機能を持った場所) から発信される」か、または「個対個のコミュニケーションの手段」というニュアンスだったもの。インターネットみたいに、個人から世界中に情報発信ができるようなイメージは持ってなかったよね。コンピュータは当然あったので、それが進化を遂げてものすごい機能を持ったもの (人工知能ですね。『月は無慈悲な夜の女王』のマイクとか『愛に時間を』のミネルヴァとか) はありました。ロボットという発想はかなり古いものだし、ロボット三原則だってすでにあった。人間の想像力は過去にも未来にも、銀河の果てまでも飛んでいくことができたのに、インターネットに類似する発想は、なぜ、なかった? 市内通話料金で外国とやりとりできるようになるなんてさ。距離に比例して料金が加算されるというシステムが崩れるなんて! というか距離という概念が無意味なものになるなんて。こういう現実に直面してやっと“情報化社会”というコトバの深さを知るワタシ……。
 
まぁ、インターネットはもともと軍事関連技術で、当時は冷戦真っ只中だったし、まさか20世紀中にソ連が崩壊するなんて想像できず、だからこういう技術が一般社会にもたらされることが思いもよらなかったというのは、その予測が甘かったなんて単純には言えないことだろう。今後、私たちの社会にもたらされる画期的技術のいくつかは、その大元がやっぱり軍事関連技術だった、というのはありえないことではなくって、この世界の“善悪という単純な二元論では語ることのできない複雑さ”を、大阪万博から35年を経て改めて思い知るわけです。しみじみ。あ、『三菱未来館』の話がまだできてないじゃん。これは私にとっての世界観やアート観にも通じる話なので、また今度。(さらにつづく)
 
 
現在進行形の仕事
三河・佐久島アートプラン21 『佐久島体験2005 祭りとアートに出会う島』 企画・制作/4月25日更新
岡崎市シビックセンター 内田修ジャズコレクション 展示コーディネート/継続中
 

 
     
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