Office Matching Mole on the Web/週刊モグラ屋通信 5



 週刊 モグラ屋通信 第14号 2000.1/26  


内藤です。19日から21日まで単独で東京出張。仕事もしましたが、ここでは3日間に見た展覧会のことなどをつらつらと。まず、19日から。東京に着くとそのまま総武線に乗って一路 千葉市美術館 へ。目当ては昨年12月から開催中の 『ジョゼフ・コスース展/1965―1999 訪問者と外国人、孤立の時代 (2月6日まで開催) 。コスースの作品には言語が多用されていて、それはもちろん作家の自国語である英語なわけです。事前に展覧会を見た人からの情報で、各作品には「日本語訳が付けられておらず、解説しているカタログもまだ出来てない」とわかっていたので、語学力が著しく乏しい私はほとんど諦めの境地で展覧会の会場に足を踏み入れました。


結論を先に申しますと、語学力が著しく乏しい人間は今回の千葉市美術館の展覧会を全然理解できないんじゃないか? という予測は杞憂に終わりました。ま、英語がわかるにこしたことはないのは言うまでもないんですが、これが、いくら言語を素材にしているからと言っても、やはりコスース作品は「文学」ではない、あくまでもアートなわけで、さらにことばの意味にあまり強く引きずられることは作家の意図するところとは違うんじゃないか? という思いに至ったのでした。それは、実はコスースの日本語によるインスタレーションを見たからなんですけどね。コスース作品に関する予備知識がなく、さらに日本語インスタレーションもなく、加えて英語がわからない、という三重苦の状態だとやはりさすがにつらいかもしれません。私の場合は『コンセプチュアル・アート』に対するごくごく基礎的な知識 (ジョゼフ・コスースの作品はいくつか見たことがあるものの、それに対して書かれた文章などは読んだことがない) だけを携えてこの展覧会に臨みました。


コスースという作家の渋さ、また千葉という場所の渋さもあいまって、会場にはほとんど人がおりませんでした。全部で3人くらいでしょうか、会場で遭遇した人は。喜ばしいことではありませんが、インスタレーション作品を見るのには好都合だったりして……。というのも、ひとつの展示室に床近くから天井近くまで、だいたい8つくらいの文章が部屋を一巡するように (それも途中で文章が途切れ、続きは上下ずれながら続いたりもする) 書かれていて、それを全部読んだ私は、つまり会場を8回ほどぐるぐると廻ったわけです。目が廻りました。会場に人が多かったら、悠長に自分のペースで文章を読んで歩くということも難しいだろうし、そういう意味での好都合ということです。インスタレーションを見た直後の感想は「書物というのはホントに親切な媒体よね」というなんだかわけのわならないもの。だって、どんな種類の本でも、たいていは一ヶ所に留まって読むことができるし、ページの順番に内容は先に進むし、こういう前後左右というか上下動がいらないし……。


文字を追いながらひとつの部屋を8周もしていると、三半規管がどうかなるって感じが体験できます。そうすると、たかだか知れた文章量なのになんか今読んだ文章の内容がものすごく断片的な印象になるのですね。それで気がついたのですが、コスースのこのインスタレーション自体がすでに、「記憶」という所詮断片の寄せ集めに過ぎない機能を視覚的に表しているように思えました。特に、インスタレーションの中に書きつけられた文章に『人間が何千年経っても哲学的に絶対的な真理に到達できないのは、あいかわらず美しいものを「美しい」、悲しいことを「悲しい」ということを意味する言語を使いつづけているからだ (テキストが手元にないのでかなりパラフレーズ) 』という一文に出会ったらかで、この人の作品は私たちが通常認識していると信じていることがらへ、ゆさぶりをかけているんじゃないかな? と、そのように感じたわけです。そうやって考えると、日本語解説が全然ない 『ひとつの、そして三つの椅子 (本物の木の椅子、その椅子の写真、辞書に定義された椅子についての文章) 』 という作品も、すげー、わかりやすいじゃん、とかね。


あ、全然違いますか? 全然違うぞ、という方はどうぞ勘違いした私に注意とご教授よろしくっ! 自力で理解にたどりつこうっていう行為は、なかなかに困難だったりするわけですが、千葉という少し不便な場所から東京へ戻るまでの道すがら、今見てきたコスース作品に関して、専門家の書いたテキストを読む前にじっくり自分で考えてみる時間があったことはとても有意義に思えました。こういう時間を持つことは現代美術作品に触れる際に、大切にしたいことのひとつです。そういう意味で、コスースの展覧会が都心から離れた場所で開催されたのは良かったんじゃないでしょうか? 東京へたどり着いた時は、すっかり日も落ちていましたが、浜松町の 横田茂ギャラリー 村上友晴 展 を見に行きました。すごく、よい作品でした。1点の作品にあるちからを堪能した、そんな印象。


さて20日。うりゃあ、という感じでギャラリー巡りを敢行。常設展の フジテレビギャラリー を皮切りに、 なびす画廊 (ここでアシスタントの中村さんにいただいた画廊ガイドの地図がその後役立ちまくりでした。ありがとう!) の 『橋本夏夫 展』 、常設展の ギャラリーユマニテ東京 、常設の 南天子画廊 カサハラ画廊 では 『ジャクソン・ポロック 展』 、へてから BASE GALLERY で 『白木ゆり 展』 、あと かねこあーとギャラリー 見て、 ギャラリー山口 では1階スペースでフルネームを失念してしまいましたが、根岸さん (以前、コオジオグラギャラリーで個展を見たことがある) 、地階は 竹本博文展/双六の審判 。この展覧会では会場で作家の竹本さんが双六の相手をしてくれました。私も対戦して勝ったよん。


その後、 ギャラリー現 、画廊コレクション展の ギャラリー池田美術 小野画廊 では 『鈴木比呂志 展』 、 コバヤシ画廊 の 『太田三郎 展』 、 ギャラリー小柳 で 『小川待子 展』 を一気に見る。さらに、常設展の 佐谷画廊 西村画廊 ギャラリーGAN の 『黒川弘毅 展』 ……。この時点で16ギャラリーを巡り、さすがに感覚がわらわらになってきたので、コレクション展を開催中の ナガミネプロジェクツ でちょっと一服させていただきました。長嶺さんどうもありがとう。少しエネルギーを充電して、再び銀座の画廊巡りへ Go!


向かったのは 『李康昭 展』 を開催中の 東京画廊 。しばらくすると男性がひとり入ってきて作品を見ていたのですが、えーっと、この人はどこかで見たような? その人が芳名帳に記名しているのをこっそり覗き見てびっくり。お会いしたことはありませんでしたが、その方こそモグラ屋の片割れ、私の相棒池田ちかの大学時代のゼミの恩師である作家の 海老塚耕一 氏 ご本人なのでした! なんという奇遇でしょう! というわけで、いきなり声をかけてご挨拶して、ついでに近所の喫茶店でお茶をごいっしょさせていただきました。というか、ごちそうになりました。いつも池田から海老塚さんの話を聞かされていたので、初対面なのにそんな気がせず、とても楽しいひととき。これをご縁と申しましょうか? その後、銀座の画廊の地理に疎い私を、次なる目的地の ギャラリーQ まで連れて行ってくださいました。そこでは私がここのところ注目している 平田五郎 展 が開催中。さらに、 村松画廊 にもご案内いただき、お礼を申し上げて次なる目的地へ向かいました。海老塚さんとの出会いに疲れもふっとび、軽い興奮状態でいざ青山エリアへ。


というわけで青山。 レントゲンクンストラウム にて 『渡邊英弘 展』 。レントゲンではちょっとなごんでディレクターの池内さんとおしゃべりなど。「オフィス マッチング・モウルってベンチャー・ビジネスかなぁ?」って私が言ったら「そりゃあアドベンチャーの間違いでしょ?」とかするどい突っ込みどうもです。 ミヅマアートギャラリー の 『会田誠 展/男の酒〜ミレニアム』。とかなんとかしているうちに早6時。猛然と恵比寿へ向かい、クローズの7時までになんとか オオタファインアーツ の 『小沢剛 展/JIZOING』、 Masataka Hayakawa Gallery の 『-scape 丸山直文/畠山直哉/前沢知子』へ駆けこむ。ふぅ、もう本日の私のアート許容量は限界を超えました。24画廊、26展覧会踏破。満腹じゃ。ばったり……。


21日は午後から 東京オペラシティアートギャラリー の 『生の交響詩 難波田龍起 展/日本的抽象の創造と展開 (2月20日まで開催中) へ。私はこれまで何度も何度も難波田龍起の作品を見ていて、特別な印象は持っていなかったのだけれど、この展覧会を見たことで私の中の難波田龍起株は急騰。などという、軽いことばで語るのは、その時の感動をあらわすのに適当ではないですね。正直に申しまして、なんでこんなにいい作品なのか、19日に横田茂ギャラリーで見た村上友晴の作品の時も思いましたが、本当に作品一点々にものすごい存在感がある。作家の作品に向かう真摯な態度が痛いくらいに伝わってきて、特にドローイング作品なんかを見ていたら、不覚にも涙が出そうになって自分でも驚いてしまいました。難波田作品を見ていると、人間というのは本当に孤独な存在であることに気付かされます。けれど、その孤独は決して絶望を呼ぶものではなく、私という人間が確かにここにあって、その細胞のひとつひとつが密度を持って私という人間をかたち作っているということ。その存在の確認でもあるのです。私はひとりだけど、確かにここに生きて、いる……。


また難波田作品が教えてくれるのは、「アートにはちからがある。確かに人の心に強く呼びかけるちからがある」ということでもあります。難波田龍起は10代に出会ってから92歳で亡くなるまで、彫刻家であり詩人の高村光太郎を芸術の師であり父として仰いでいたそうですが、難波田の作品はすでに師である高村光太郎の地平を遥かに超えているでしょう。こんな素晴らしい展覧会は見ないと駄目ですっ! まだの人は是非。ジョゼフ・コスースと難波田龍起を続けて見てしまって、すでに私の2000年に見た展覧会ベスト3のうちのふたつが決定しちゃったような気がします。私の印象批評的な感想文ではなくて、もっとちゃんとした難波田龍起展の展評を、相棒の池田が26日の中日新聞の夕刊に書いているはずなので、興味のある方はそちらの方をご覧くださいませ。


よい意味で打ちのめされて、ほとんど放心状態になったのでオペラシティの中にある喫茶店でお茶して平常心を少しだけ取り戻してから、近くにある ワコウ・ワークス・オブ・アート の 『トーマス・シュッテ 展』 、 KENJI TAKI GALLERY TOKYO の 『金謹中(キム・グンジュン) 展』 を見て、無茶苦茶に充実した時間を過ごすことのできた東京を後にしたのでした。


えー、今回のモグ通は長いですよ。今週のアート関連行事はまだ続く。というわけで22日は私の古巣である ノブギャラリー にて開催された 『SCALE & SPACE Vol. 7 ― 刻 ―/平田五郎・土屋公雄・中川佳宣・宮島達男』 のオープニング・パーティーへ。池田も出席。土屋さんは海外、宮島さんは柿の木プロジェクトのために不参加。しかしながら、中川さんと平田さんとは久しぶりにお会いできて楽しく真面目にいろんなお話ができて大満足でしたわ。平田五郎の写真作品を一点購入。ああ、なんと久しぶりに作品を買うことか……。満足の二乗。


今週の締めは25日に 豊田市美術館 『イケムラレイコ 展/地平線を越えて (3月26日まで開催中) 。池田とは美術館で待ち合わせ。美術館に一歩足を踏み入れると、いつにない異様な喧騒につつまれていたのは、市内の中学校と思われる制服姿の子ども達がいくつかのかたまりになって作品を鑑賞していたからでした。美術館に子ども達が訪れるのは、個人的にも好ましいことだとは思うのですが、ありゃほとんど野生の猿、っていうか。もうきゃっきゃきゃっきゃと大騒ぎですわ。なんか展示室ひとつひとつを大声でおしゃべりしながら廻っているだけで、引率の先生達も引率方法がわからないようでお手上げ状態。「おい、もう少し静かにしなさい」とか注意している先生もおられましたが、それよりも「もう、やだなこんなわけのわかんないとこに来ちゃって。間違っても質問なんかすんなよな、おまえら」というような気分がオーラのように漂っていたような気がします。まぁねぇ、ヤニス・クネリスやボイスの作品を前にして、困惑するしかないっていうのは、まぁ、気の毒ではあるけれど。もう少しなんか考えてから連れてくればいいじゃないかと、ちょっと暗澹たる気持ちになったのは否定できません。連れてくればいいってものではないし。豊田市美術館にはガイド・ボランティアによるギャラリートークだって毎日行われているわけだし。


ただ、吹きぬけのジェニー・ホルツァーの作品の電光掲示板に流れる文字を読んでいた3人くらいの女の子たちが「なんかすごい言葉だよねぇ」っていいながら、じーっと見入っていたのには少しだけ嬉しくなりました。思わず彼女たちの耳元で「この作家はね、アメリカのコンセプチュアル・アートの女性作家なのよ。彼女はフェミニストで、いつもこんな風にことばを使った警句が作品になっているの、たとえばね "MEN DON'T PROTECT YOU ANYMORE" とか」と悪魔風にささやいてみたい誘惑にかられまくり。また、たとえばその隣のジョゼフ・コスース作品の下できゃっきゃと騒いでいる子どもらに「お〜い、これはただの壁紙ではないんだよ! ほれここに書いてあるのは紀元前から現代に至る歴史の中で独自の哲学を提示してきた思想家たちの名前なんだよ。日本人のもあるでしょ? 先生に聞いてみなさいな (=質問して困らせてやれ) 」とか。やっぱり悪魔的に。


彼らは結局、ここに書きつけられたアルファベットの文字が人の名前だということにも気付かず、だから当然それが思想家たちの名前であることにも気付かず、したがって、なぜコスースが淡々と壁に思想家たちの名前を刻み込んでいったのかも知らずに、ここを去ってゆくのね、そうなのね……。別に知らないでも困らないのですが、たとえば100人の生徒の中で確率的には2〜3人のこまっしゃくれた子どもが混ざっていることは充分考えられるわけで、彼ら (それは昔の私だ) がその幼い頭で、もしかしたらジェニー・ホルツァーとおなじように "THE FUTURE IS STUPID" ってつぶやいていることは充分にありえます。そんな子どもらが、コスースの作品とか見ながら「そういう自分はどうなんだ?」とか気付いたりするのは、なかなかよいことだと思いますがどうですか? どこか、それはわからないけれど自分の行きたいと思う地点に至る道はひとつではないし、その道がひとつではないということを学校で親切に教えてくれるわけではかならずしもないわけだし、それに気付くのが美術館だっていいじゃないか! と、岡本太郎風に……。あるいは「こんなんもありなのね」って、それだっていいと思います。 ちなみに、上記に引用した短いホルツァーの警句は、豊田市美術館の作品の引用ではありません。これは1991年に作られた「ジェニー・ホルツァー鉛筆」に書きこまれた文章です。MOCAのミュージアム・ショップで買ったのさ。


そうそう、この日の本来の目的は 『イケムラレイコ 展/地平線を越えて 』でした。よかったです。小さい方の展示室は壁がブルーに塗られ、そこに白い文字が縦書きで等間隔にぐるりと書かれていましたが、まるでそれは小雨の中を歩いているようで、ことばがまるで雨粒のように降ってくる、静かに。語られない言葉、描かれないものたち、そういうそこにないものの気配までも感じさせるような、そんな作品でした。あ〜、もっと静かな環境で見たかったですよ。子どもが元気なのは結構ですが、ケースバイケースですよね、ほんとに。また改めて出向くとしましょうか。近所だしね。



     
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